考察

デカルトと近代哲学

“Ghost in the machine” – Gilbert Ryle

日中は開拓農民として汗を流し、夜は哲学をする人間として瞑想にふける。

そういう訳で、Bryan Magee氏がホストを務める”The Great Philosophers”という番組をYouTubeでよく見ているのだが、Outputを出すことによって自らの理解も深まるだろうと思い、気になったエピソードを意訳して簡単に纏めてみようという考えに至った。

その番組ではエピソードごとに専門家を招いて対談形式で現代に影響を残した哲学者を紹介していくのだが、非専門家向けに噛み砕いている内容とは言え、そのままでは西洋哲学に馴染みのない人間にとっては理解が困難だと思われるので、さらに要約して論点をはっきりさせる事に努めた。

それでは、Bernard Williams氏を招いて「近代哲学の祖」ルネ・デカルトを紹介したエピソードを見ていこう。

序文

近代哲学はデカルトから始まった言っても過言ではない。 ルネ・デカルト(René Descartes) は1596年にフランスで生まれ、超一流の教育を受けて青年期を過ごした後に軍人となりヨーロッパ各国を旅する機会を得る。そこで、自らが学んだ知識と現実世界の間に矛盾を感じ、確実な知識を得る方法を見つける為に、当時最も自由な思想を許していたとされるオランダで20年にも及ぶ隠遁生活を始める。その間にデカルトは哲学以外の数学や物理などの分野でも成果を残しており、交わった2本の線(X軸・Y軸)で対象の位置を測る方法なども発明している。

第一の問題(自身の存在)

現代に於いての科学は、世界的に共有された知識を基に確立された方法を用いて未開拓の領域を埋めていく「知の分担作業」が行われているとも言えようが、デカルトが生きた時代にはまだ科学的方法が確立されておらず、いかなる方法が今後の科学的方法となるか争う余地があった。Francis Baconなど一部の良識者はこの方法を見つけさえすれば自然界で起こる現象を全て理解出来るようになるまで長い時間は要さないであろうと主張する一方で、懐疑主義者と称される人々はいかなる知識を得る事も出来ないと主張していた。

当時の教育は教会によって取りまとめられており、宗教色が強く、またその内容も古書を用いたものが多かったので、懐疑主義者がつけいる隙が多かったという事も事実としてある。そんな中、これからの科学の土台を作ろうとするデカルトは、 「少しでも疑いの余地があるものは真実として受け入れない 」というルールを自らに課し、懐疑主義者がつけいる隙がない確固とした基礎を作る為に瞑想を始める。

真実の探求を始めるには先ずは確実と思える事を見つける必要がある。

その為にデカルトが取った方法とは、自らが懐疑主義者となり考察を深め、それで行き着いた先に確固とした知識を見つけるという方法である。デカルト曰く、良いりんごと悪いりんごが混ざったバスケットから、良いりんごだけを選び出すには先ず全てのりんごを取り出し、良いりんごだけをバスケットに戻していく。すなわち、先ずは全ての知識を放り捨てて、確信の持てる知識だけを元の入れ物に戻すという知的作業を行うという事であった。

彼が第一に行ったのは自らの五感から得られる情報を疑う事であった。それは、水の中では棒が曲がって見えたり、色盲は色が違って見えるといった事例からも分かる通り、感覚を通して得られた知識は不正確でありえるからである。

第二に、彼は自分が知覚している世界が夢ではないかと疑う事をした。今自分の回りにいる人や机を知覚するのと全く同じ様に、夢の中でも人や机を知覚する事があるが、目が覚めてそれが幻覚であったと気付く事がある。それならば、たった今この瞬間に自分が夢を見ていないという確信は持てるのかという疑いが生じる。

そして「懐疑主義者」となったデカルトは最後に可能な限りの疑いを持とうとする。

それは、人を欺く悪魔が存在して、自分は常にその悪魔に欺かれていると想像する事であった。そして、 そのような悪魔が存在すると仮定した状況でも、悪魔に欺かれずに確信が持てる事はあるのかを考えた。

全てを疑い放り捨てたデカルトの瞑想はここでターニングポイントを向かえ、彼の考察は疑いから確信に切り替わっていく。

彼の確信とは、仮に悪魔が自分を欺こうとしても、自分が何も思っていない時に何かを思っていると信じさせる事は出来ないという事だ。それは、仮に自分が誤った思いを持っていても、それは一つの思いであるからである。

そして、彼はその確信から一つの結論を得る。

それは、自分自身の存在の確信。「我思う、ゆえに我あり」(ラテン語:cogito ergo sum)に辿り着く 。

自らが意識しているならば、それが夢、幻覚、悪魔による欺きであったとしても、それを意識している自分は存在しているという確信が持てる訳である。

第二の問題(外界の存在)

全てを疑った末に自身の存在に確信が持てた訳だが、その後に何が続くのか。

自らが意識している外界の事象や経験について誤った推論を持つかもしれないという問題に何も変わりはなく、仮に目の前に机があるという経験をしていても、その机が本当にそこにあるという保証は未だにないのである。

果たしてデカルトは一度放り捨てた世界をどの様にして元に戻すのか。

自身の存在以外に何の確信も持てないデカルトが持ち出したのは「神」の存在である。

デカルトは、小さきものはより偉大なものを生み出す事は出来ず、小さきものはより偉大なものの原因になる事はないと説明する。彼の思う神とは無限の存在である。そして有限である彼が無限の存在を想像出来るという事は、その概念は神によって彼にもたらされ、彼自身も神によって創造された事は自明であると主張する。

(注:キリスト教における神とはOmniscient: 全知; Omnipotent:全能; Omnipresent: 偏在である。)

自分を創造した博愛なる神は、自分の知的・精神的活動にも気をかけてくれているはずなので、自分が知的探求において自身の役割を果たす限りは、神は自身が強く信じるに値する現象を確証してくれるはずである。

物理世界についていかに自身のアイデアを批評し慎重に考えようが、自身の外界にある物質世界は実在するという強い信念が認められる。自らの知力を尽くしたうえで自身の信念に誤りがないと思えれるならば、神は自分が思想に於いて根本的な過ちを犯していないと確証してくれるのである。

そしてデカルトは、神の存在を確信する事により、物質世界の存在を確信したのであった。

近代哲学への影響

自身の外にある世界が物質世界として存在すると確信するに至ったデカルトの考察はその後の世界に何をもたらしたのか。

デカルトにとって物質世界を確信する為には神の存在が必要不可欠であったが、彼が確信した物質世界とは数学物理によって理解が出来る世界であり、神学的な解釈を必要としない世界であった。

手に付けたワックスを火に近づけると、これまでそのワックスが持っていた色・形・臭いなどの特性が変化するが、物質としてのワックスは継続的に空間を専有して、増えたり減ったり、ましては急に出現したり消滅したりするものではなく、物理的に解釈出来るという科学の可能性を示したのであった。

また、外界に於ける物質世界の存在を確信したデカルトの考察であるが、自信の存在については自意識のみを確信しており、必ずしも肉体(物質)を必要としている訳ではないというのは特記すべきであろう。自らの精神の存在を認め、物質世界の存在を認める「精神と物質」という二元論的な見方は近代哲学に深く根付き、現代人の思想にも影響を与え続けていると言えるであろう。

そして、デカルトは外界に何があるのかという存在論の質問だけでなく、「自分」は何を知る事が可能なのかという認識論の問題を投げかけ、 観察する存在(知る存在)と観察される(知られる存在) 、主観と客観という命題を残したのであった。