考察

クワインの思想 -哲学の課題とは-

前回に続いてBryan Magee氏の哲学者を招いた対談を意訳しようと思う。今回の対談相手はW.Vクワイン教授。”Two Dogmas of Empiricism”など現代哲学に大きな影響を与えた論文や書籍を執筆し、20世紀を代表すると言われたクワイン教授が、現代における哲学の立ち位置や科学との関係性、そして哲学が取り扱う課題について説明するという内容になっている。今回意訳してまとめた内容以外にも、自由意志について、数学などの抽象的な実体などについても説明されているが、対談の要点を分かりやすく為に内容の一部を省略した。

紹介

哲学の専門家に20世紀で一番影響力のあった哲学者は誰かとアンケートすると、必ず上位に挙げられるW.V.クワイン (W.V. Quine)。ハーバード大学の教授であるクワイン氏は論理学者として数々の著書を出版しており、その専門分野において多くの功績を残している。彼の研究は専門性が高く非専門家にとっては理解が困難であるが、哲学者としてのキャリア後半に入り哲学全般の命題についても強い関心を示すようになった。

哲学界の頂点にいるとも言えるクワイン教授に哲学の基本や彼の活動について質問する。

哲学の課題とは

Q:哲学の中心的な課題とは?

A:世界についての知識や性質であり、ニュートンが言ったように世界のシステムを完成させる事であると思う。哲学者によっては哲学は科学とは切り離されたものであり、むしろ科学を構築させる為の土台を作るものだと考えるものがいるが、私はそれは哲学者の夢物語であると思っている。科学の大半は哲学より堅固であり、むしろ哲学が熱望するほどのものである。私は哲学は科学の延長であり、科学の一部であるとも思っている。

Q:もし、哲学が科学の延長であり、科学の一部であるならば、その他の科学とどう違うのか?

A:一般性と抽象性において違います。科学は歴史と技術発展の連続からなるものであるが、もう一方で哲学や数学といった抽象的な研究でもあります。哲学は原因の本質について考察するが、物理学では特定の事象についての因果関係を題材とし、生物学では生物に関わる事象について、動物学者はある動物の存在について説き、物理学者は電子の存在について説きます。数学者は素数に限りはないと説き、哲学者は全てをひっくるめて何が存在するかについて関心を持ちます。そういう意味で、哲学は一般的に抽象的と言えるでしょう。

Q:言い換えると、哲学者は皆の考えを繋げるものを研究していると言えそうですね。物理学者はAがBの原因になりうるかを考え、哲学者は何かが他の何かの原因になるというのはどういう意味かを考え。物理学者は仮に亜原子粒子の存在を追求しているとしたら、哲学者は存在するという事はどういう意味かという事を考えている。この様な一般性の中で哲学の研究が行われているという事ですね。それでは、あなたは世界の始まりや生命の起源についての質問を哲学の課題として含めているのでしょうか?

A:それらの質問は哲学的な課題からは除外しています。世界の始まりは物理学者や天文学者の課題であり、生命の起源は生物学者の課題であり、それらの課題解明については目覚ましい進歩が見られていると思います。一方で、なぜ世界が始まったか、なぜ生命が誕生したかという質問については、答えが見つかるとは思わないので質問自体が偽りであると思います。

Q:それらの質問については、考えられる答えが見つかりそうにないので、質問自体に意味がないということですね。言い換えると、哲学の中心的な課題というのは、様々な分野の主要な概念や、因果、存在、科学的法則、など科学的な探索をするのに必要な一般的な概念についての解析と説明であるという事でしょうか?

A:そう言えると思います。

Q:哲学の主要な課題を大きなカテゴリーに分ける事は出来ますか?

A:大きく分けて2つのグループに分類出来ると思います。一つ目は、存在論。存在論とは何が存在しているか、そしてどのような手段で存在しているか。二つ目は、述部に対する質問であり、それは存在(主語)に対してどのような質問が出来るのかについてです。

Q:一つは何が存在しているかという質問があり、もう一つは存在について何が知れるか、若しくは何が言えるかという質問があるという事ですね?

A:そうです。そして認識論は後者に含まれています。

存在論

Q:先ずは何があるのかと言う、哲学における存在論の質問を見ていきましょう。この題材については多くの説がありますが、歴史的に対立する二つの見方があると思います。一つは唯物論、そしてもう一つは唯心論。前者は世界は時間と空間の中で物質によって構成されていて、その世界は観察や経験とは独立して存在している。もう一方で後者は世界は心や精神の働きによって成り立っているという見方です。それでは簡潔に答えると、あなたはどちら側に立っているのでしょうか?

A:私は唯物論(物質主義)の側に立っています。私は、物理的な客体は現実であり、観察者とは切り離されて独立的に存在していると考えます。しかし、物体だけではなく、抽象的な客体も存在しており、数学的な客体もこの世界のシステムを埋める為に必要なので存在していると考えます。しかし、肉体(物質)とはかけ離れた、心や精神的な存在については認めていません。

Q:という事はあなたは唯心論だけではなく、 歴史的に広く受け入れられている心身二元論、すなわち現実は精神と物質からなる二つの異なる実体で構成されていると見方をも否定しているのでしょうか?

A:その通りです。心身二元論は解決不可能であり不必要であると思われる問題を作りだすからです。個人の判断は彼の行動に影響を及ぼし決定していくのは明らかであり、彼の行動は他の物体にも影響を及ぼすのは明らかです。同時に物理学者などの自然科学者は閉鎖システムを主張しており、物理的な事象については物理的な原因があり、物理的に説明が出来る。そして、物理世界の外からくる影響を認めていません。それらをひっくるめて、個人の判断は物体の活動と言えるでしょう。

Q:ということは、願い・感情・判断・考えなどは人という物体の中で起きている出来事というのは明白ですが、それらは脳や神経系といった微小物理の変化に伴って発生するというよりも、それ自体が微小物理の変化であると言う事でしょうか。

A:その通りです。

Q:あなたの見方を持ってすると、古くからある「精神と物質」の問題はどのように見えるのでしょうか?というのも、形も無く抽象的で非物質的な精神が物質である肉体をいかに動かすのかという疑問にはこれまで誰も明確な答えを出していません。あなたは物質とは独立した精神の存在を信じないのであれば、あなたにとってはこのような問題は存在しないという事でしょうか。

A:その通り、私にとって「精神と物質」の干渉という問題は存在しません。もっと言えば、そのような問題を除去する為に物質主義を選択していると言えます。しかし、精神の存在を認めないのであれば、一般的に言われる精神的な活動をどのように説明するのかという問題が生じてきます。この精神的な働きを全て神経学的な用語に言い換えるのは神経系の詳細なメカニズムを理解するという困難な課題があるので良くない方法だと思います。しかしそれは、これまでの精神的な用語を肉体や肉体的な活動に適用すれば簡単に解決します。

物質主義には相互主観性(客観性とも言える)という、もう一つの利点があります。これによって、情報は内的なものではなく、他の観察者と共有出来るものになります。そして、これは自然科学が発展した半面、内観的な心理学が同じ様に発展しなかった原因だと考えます。しかし、もし内観的な心理学の概念をそのまま肉体的な活動に当てはめると、相互主観性という自然科学の恩恵を受ける事が出来ません。その対処法として行動主義を挙げますが、その役割は精神的な用語を神経学を介さずに正統化出来る事です。相互主観的に観察できる精神状態の基準は言動を含む行動によって見て取れます。そしてそのような基準がある限り、神経学的な説明がなくても自然科学の恩恵を受けれることになります。私が行動主義を主張するのは、行動主義が精神的な概念を客観的に見る方法であると思うからです。私は行動によって精神状態を見極めれると思っていませんし、その説明になるとも思っていません。むしろ、そのような説明は神経学的によってなされるものと思っています。

Q:言い換えると、行動主義というのは哲学者の課題にとっての解答ではなく、その説明方法若しくは言語であるという事でしょうか。

A:その通りです。

述部(認識論)

Q:あなたが主張する世界は物質からなる物理世界という事ですが、どのようにしてこの物理世界についての知識を得る事が出来るのでしょうか?そして、物理主義的なアプローチや行動主義的な解析は私たちをどの様な問題から解放してくれるのでしょうか?

A:解放されるとも言えますが、行動主義はより厳格な教練であるというのももう一つの見方です。一つの例としては、意味についての観念があります。一般的な観念として言葉は意味を伝える事が出来るとされますが、同じ言葉が違う話し手によって使われた場合に同じ意味を伝えているとどの様にして知れるのでしょうか。二人の話し手が同じ反応をしている事が見て取れれば行動として説明出来ますが、その意味はどうでしょう。行動によって意味を十分に説明する事は出来ません。

また、翻訳という観念も同じような疑問を生じさせます。意味についての観念が疑われると、翻訳という観念もより複雑になり、 翻訳された文と同じ意味を持つ文を単純に作り出すという事が出来なくなります。

そして、必然性という観念にも疑問が生まれます。一つは言葉の意味による必然性(論理的必然性)。文はその文に含まれる言葉の意味によって真実とする判断ですが、これも意味の観念が否定されると同じ様に否定されてしまいます。もう一つは物理的法則による必然性(因果的必然性)ですが、これは意味の観念とは違いますが似た様な疑問が生まれます。そうすると、法則と言える程の普遍的な真実と偶然的な事実との違いが明確では無くなってきます。人々は必然的という副詞を使う時に、普遍的な真実と偶然的な事実とで区別していると思いますが、必然性とはその時の状況次第で内容次第であるという事になると思います。

このように、私は述部について悲観的な見方をしています。それは、観察可能な対象についてあまり役に立たない述部の適用を拒否するということですが、それに失敗したとしても、少なくとも観察可能な事象とは相まみえない理論的な述部を認める必要はあるでしょう。ただ理論的な述部も世界のシステムを作り出し予測を可能とする仮説や物理的法則を介して観測的な述部と関連していると強調するべきです。なので、私は、述部は観察に於いて不十分であり必然的ではありませんが、理論的な仮説に於いて一定の役割を果たし適用できるだけの兆候があるものだと主張します。