考察

「国富論」を通してプロジェクトを見る(2)

「国富論II」(中央公論社・大河内一男監訳)は原著の第二篇から第四篇の一部で構成されています。

本書は経済学者が書いた書物ということもあり、当時のイギリスの経済データが書き連ねられていて、現代人の特に非専門家が読むとピンとこない部分も多いし、詳細に埋もれた論点を読み過ごしてしまう危険もあります。

江戸時代に来日したペリー提督は彼の日記で日本の歴史書は細部の記述が多いが肝心なところがはっきりしていないと苦言を呈していましたが、やはり生きた時代が違う外国人に読まれる事を想定して著述していないはずなので、古典を読むうえで多少の読みづらさはしょうがないと今回改めて感じました。

それでは今回も古典特有の詳細の多さに負けずに読み進めていこうと思います。

国富論を初めから読む

第二篇

第二篇では資本の蓄積が分業を推し進め、それにより労働の生産力が高まったとのスミスの主張から始まり、資本の性質・蓄積・用途について説明されている。

その中で生産的労働と不生産的労働の違いについての説明があるが、前者は労働を投じた対象の価値を増価することになるので資本の蓄積の原因となり、後者はそのような効果を生じない種類の労働であるので資本の消費の原因となると述べてられている。

資本の蓄積がその後の生産力の増加に繋がるので、資本の蓄積の原因となる生産的労働に力を入れる事が重要であり、どの労働が生産力の増加に繋がるかを考えれば、当プロジェクトで優先すべき労働の種類が見えてくるのだと思う。

第三篇

第三篇では都市の発達が如何に農村の改良に貢献したかが国王、大地主、都市、農民の関係性とともに説かれている。

国王は対立関係にある大地主の力を弱らせる為に都市の自治を認め、その都市では外国貿易や製造業が盛んになり都市は発達していく。もともと発達した商工業のない時代には、大地主が毎年獲得する生産物の余剰分と交換するような商品は少ないため、大地主は余剰の全てを周囲の人間に振舞おうとする。この大地主はいつも彼に寄食している多数の郎党・食客に囲まれている事になるが、これが彼の権力であり武力であった。しかし商工業の発達は大地主の余剰生産物と交換出来て、なおかつ大勢の人間と分けてしまう事なく自分だけで消費できるような品々を供給するようになった。

かれら大地主は、豊富のなかでの気紛れから、大人が真剣に求めるというよりも、むしろ子供の玩具まがいの装身具や金ぴかの安ものを手に入れようとして、生得権を売ってしまったので、かれらは都市の富裕な市民や商人と変わらない普通の人間になってしまった。

国富論II(中央公論者・大河内一男監訳)

かくして、お払い箱となった農民(農奴)は領主に隷属されている立場から小作人や小地主と変貌して、さらに進んだ農地の改良が行われるようになる。

生産力の向上は資本の蓄積から成り、節約こそが資本の蓄積を可能にするとスミスは繰り返し述べており、特に浪費について語るときは急に口調が厳しくなるのが読み取れ、彼が教壇に立つ身であったからかどこか教師の様な雰囲気を感じ、アダム・スミスという人間を想像するうえで興味深く感じる。

第四篇(前半)

商業主義(system of commerce)の批判から始まる第四篇では、スミスの語気にも熱が入り盛り上がりを見せ始める。そして、かの有名な「見えざる手に導かれる」(led by an invisible hand)の記述があるのもこの篇である。

商業主義では富を金銀(貨幣)であると考え、金銀の蓄積が富国と国防の道だと考えられてきた。しかし、スミスの考えでは富は金銀(貨幣)から成るのではなく、貨幣で買えるものから成り、貨幣はものを買う力があるから価値があるということは自明であるので、あえて証明するのは馬鹿げていると断りを入れつつも、熱烈にそして繰り返し説いている。

金銀は一般的な消費財と比べて耐久性があるので、これを不断に輸出することがなければ、その国に徐々に蓄積され、国の富は増大するだろうとの商業主義の論法に対し、同じく耐久性のある金物を例に挙げて反論している。金銀は商売における決済の為の道具であり、その道具の必要量は限られており、それ以上の蓄積は意味を持たないどころか有害である。例えば、金物を蓄積しても国じゅうが鍋釜だらけになるだけであり、家庭における調理道具は必要量以上にあっても食卓を豊かにするものではない。食卓を豊かにするのは食材であり、道具の購入に不必要な出費をするのは食料品の量を増やし質を良くするものではないとの事だ。

言い得て妙であり、この表現に感服する。国で流通する貨幣が増えても国は豊かになるものではなく、流通する消費財が増える事により国は豊かになる、そして消費財を生産する生産力こそが富の源泉であると現代社会に於いても言えるのではないだろうか。

商業主義の批判を繰り返すスミスだが、貿易については否定的ではなく、むしろ自由貿易を推進していて、各国が輸入に対する制限を行っている事を痛烈に批判している。自分で作るよりも他所で買う方が安い場合は他所で買うのが分別のある人間がする行為だと。スコットランドでもフランスワインの30倍の費用を掛ければボルドー産にもブルゴーニュ産にも質で負けないワインが出来るがそこに何のメリットがあるのかと。しかし、国の富裕よりさらに重要なのは国防であり、国防に携わる産業は例外として保護するべきであると続く。彼の筆は止まらないが、第四篇の途中で第二巻はページが尽きてしまう。続いて、重農主義についての話になるはずだがそれは第三巻に期待しよう。

まとめ

竹やぶを切り開いて農業・工業(手工業)・商業を営むという当プロジェクトの目的は独立・自立した生活基盤を作りあげる事であり、その独立性・自立性を考えると、「国家」の在り方に目を向けて、それを見本とするのは自然の流れであると思いました。

日本語で「経済・経済学」と訳される”eco-nomics”という英単語は、oikos:家、nomos:法・秩序、というギリシャ語を語源としており、「家の秩序」という意味合いを含んでいる言葉です。

家の秩序を国レベルまで拡大・飛躍さしたのが今日の経済学ならば、それを逆に家レベルまで縮小させて家の管理のモデルとするのは可笑しい事ではないはずです。

200年以上経っても色褪せないスミスの説いた経済学。今回は「国富論」からの直接引用も入れて、スミスとの対話も楽しみつつも、当プロジェクトの核心に触れる事が出来たと思います。

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